村上春樹さんの『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』を読んで、

村上春樹さんの『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』という本があります。『ノルウェイの森』や『海辺のカフカ』など(古くてスミマセン)大作が色々とありますあ、こちらの紀行文はあまり知られていないのかなと思います。平易な言葉の連続で、本当に種も仕掛けも無いのに、読み進めていくうちに完全に虜になっている。不思議な本です。


この小さな旅行記もまさにその氏の魔法的な性質を十分に宿したものだと思いました。答えは本当に単純なのです。氏は冒頭でこう宣言しています。「ささやかな本ではあるけれど、読んだ後で(もし仮にあなたが一滴もアルコールが飲めなかったとしても)、ああ、そうだな、一人でどこか遠くに行って、その土地のおいしいウイスキーを飲んでみたいな、という気持ちになって頂けたとしたら、筆者としてはすごく嬉しい」


はい、当にそういう気持ちになりました。読み終わった後に、居ても立ってもいられないような、すぐにでも飛行機で旅立ちたいような。それぐらいに、自分の心をズバン、ズバン、と打ち抜くものが、この文章には詰まっていました。


この本ではスコットランドとアイルランドが紹介されていますが、こちらのホームページはスコッチウイスキーを一応メインに据えているので、スコットランドの部分だけを切り出して少し紹介できればと思います。

スコットランドの部分に関してですが、内容は全てアイラ島での話です。アイラ島というのは、スコットランドの西側にある島々の中のひとつの島で、ウイスキーの生産地として古くから有名です。

この島のウイスキーはモルトを乾燥するときに使う泥炭(ピート)の香りが特徴的で、スコッチファンの間でも、好みが分かれるところかと思います。個人的にはクセのある味わいというのが好きなのタイプなので、自分は最初から抵抗がありませんでした。むしろ、その特徴に惹かれて好きになったくらいです。

まずは次の箇所。これはアイラ島の最初の紹介の場面です。アイラ島は辺鄙な場所にあり、天候も厳しく、観光名所と呼ばれるものはほとんどない。それにも関わらず、この島を訪れる人がいる、とした上で次のように続けます。


「暖炉によい香りのする泥炭(ピート)をくべ、小さな音でヴィヴァルディのテープをかける。上等なウイスキーとグラスをひとつテーブルの上に載せ、電話の線を抜いてしまう。文字を追うのに疲れると、ときおり本を閉じで膝に置き、顔を上げて、暗い窓の外の、波や雨や風の音に耳を澄ませる。」(pp. 22-23)

まさに「英国人的な」余暇の過ごし方なのかと思うとともに、このようにしてウイスキーを楽しむものなのかと強く胸打たれました。

アイラ島のシングルモルトは、それぞれが個性の塊。アイラのシングルモルトといえば、「有難い教祖様のご託宣のようなもの」との表現には、思わず微笑みがこぼれました。もともとはブレンドウイスキーを作るときの隠し味的な要素ととして使われており、原酒そのものを楽しむというのは島の中だけのことであったようです。それが昨今のウイスキーブームなどによりその個性的な味わいが評価され一躍有名に。今では世界中からウイスキーファンが「巡礼」に訪れるようになっています。

小さな島の中で、各蒸留所がそれぞれの個性を維持し続けるとはどういうことなのか?そのことを次のように説明しています。


「それぞれが自分の依って立つべき場所を選びとり、死守している。それぞれの蒸留所には、それぞれのレシピがある。レシピとは要するに生き方である。何を取り、何を捨てるかという価値基準のようなものである。何かを捨てないものには、何も取れない」(pp. 38-39)


後半では、ボウモア蒸留所を訪れた際のことが書かれています。当時の蒸留所のマネージャーであったジム・マッキュアンとの対話が印象的です。ジムは樽職人の仕事から始めたそうですが、樽熟成の様子を次のように語ります。


「アイラでは樽が呼吸をするんだ。倉庫は海辺にあるから、雨期には樽はどんどん潮風を吸い込んでいく。そして乾期(6~8月)になると、今度はウイスキーがそいつを内側からぐいぐいと押し返す。その繰り返しの中で、アイラ独特の自然なアロマが生まれていく。」(p.42)


アイラウイスキーの特徴ともいえるのが「磯の香」。


この島は一年を通して風が強いため、島の至る所にその匂いがしみ込んでいるそうです。それを「海藻香」と島の人は呼ぶそうです。泥炭(ピート)も、その土地の特徴によって香りが異なりますが、アイラモルトはこの磯の香りがのったピート感が特徴的(※)。この独特な香りは初めて飲まれる方には、少し驚かれるものかもしれません。

※厳密にはアイラ島の蒸留所すべてがピートっぽいわけでなく、ピートを焚かない蒸留所もあります。


しかし、あなたがアイラ党(アイラが好きになるか)かどうか、このようにユーモアある表現で説明されています。


「一くち飲んだらあなたは、これはいったいなんだ?、とあるいは驚かれるかもしれない。でも二くち目には、うん、ちょっと変わってるけど、悪くないじゃないかと思われるかもしれない。もしそうだとしたら、あなたは、かなりの確率で断言できることだけれど、三くち目にはきっと、アイラ・シングルモルトのファンになってしまうだろう。僕もまさにそのとおりの手順を踏んだ」(p.46)

アイラのウイスキーの特徴は、「土地の香り」を明確に感じることができるシングル・モルトだという点です。具体的にそれは、磯の香をたっぷり含んだ泥炭(ピート)の香りであると、言い換えることもしれません。しかし、アイラの中にある蒸留所は、その同一条件でも、さらにそれぞれに個性があります。それは恐らく各蒸留所の微妙なレシピの違いであり、その伝統を純朴に今に至るまで守ってきた結果であると思います。

アイラウイスキーの特別な味の正体は何なのか?。最後にもう一度ボウモアのジムに問いかけます。ジムはその味を決める上で、島の水やピート、上質な大麦などの要因が間違いなくあるとしたうえで、次のように答えます。


「いちばん大事なのはね、ムラカミさん、いちばん最後にくるのは、人間なんだ。ここに住んで、ここに暮らしている俺たちが、このウイスキーの味を造っているんだよ。(中略)それがいちばん大事なことなんだ。だからどうか、日本に帰ってそう書いてくれ。俺たちはこの小さな島でとてもいいウイスキーを造ってるって」(p.65)

新潮文庫(1999)

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